Dear Mam ブラザー・トム

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シングルマザーに育てられた子どもたちから愛するママへ
今もなお、何かに躓くたびの相談相手は亡き母

親子喧嘩の原因はいつも「謝り合いすぎ」と「譲り合いすぎ」
 物心つく前からおふくろとふたり暮らし。
 父親の写真すら見たことがなかったため当然、「普通の家庭と違うな」と気づいていましたが、父親がアメリカ人で、僕自身もアメリカ国籍だと知ったのは中学生のときです。
 ある日、おふくろが「学校を休んで、アメリカ大使館へ行くよ」って。電車で移動中、「実はね……」と何かを言いかけては、その後の言葉を飲み込む、の繰り返し。
 いざ大使館に到着、前を歩くおふくろが意を決したように振り向くと、涙がポロポロとこぼれ落ちてね……それを見た瞬間、思わずおふくろを抱きしめていました。
この人には、言葉にするのも辛い「何か」を絶対に口にさせない!と誓いながら。ただ、大使館で目にした書類で自分の出生を悟った。
その後も、詳しい事情をおふくろに尋ねたことは一切なかったです。
 シングルマザーに育てられた男の子は、「母親を守る」という気持ちが早くから芽生えるのかもしれませんね。
 幼少期から、おふくろが風邪をひけば「僕の命が半分減ってもいい。早く治して!」と神様にお願いしたり。 また、 「父無し子」と度々イジメの対象になったのだけれど、その事実は、おふくろを悩ませたくない一心で自分の中に留めました。授業参観日、他のお母さんたちが綺麗な格好をしている中、仕事を抜け出したおふくろは作業着で、それが嫌でたまらなかったのも「みっともない」でなく「無理して来なくていいのに」という心配からだったんです。
 親子喧嘩にせよ、大方の原因は、「謝り合い過ぎ」と「譲り合い過ぎ」だったなぁ。1ピースのケーキを、「ごめんね、ひとつしかないの。あなたが食べて」「いや、ごめん、俺もいらない」的なやりとりがだんだんヒートアップして、「もう、出て行く!」と友達宅へ家出する、みたいな( 笑)。
 「謝る」といえば、20代前半の出来事。結婚を考えた女性がいたんですが、相手の親からおふくろに電話が来て、「片親に育てられた息子さんに、うちの娘はやれません」。 電話の後、おふくろ、泣いて僕に謝り、「私が生きていたことが、悪かったんだ」とまでこぼした。僕もおふくろの肩を抱いて「俺こそ、悲しい思いをさせてごめんね」。お互い、何度「ごめん」を口にしたことか……。その女性とは、すぐに別れましたね。

ひとりで子どもを育てることの大変さが身にしみた母のある言葉
 そう、僕が小学校1年生のとき、おふくろもたった一度、恋をした。相手の男性の家へ僕も一緒に訪れた日、彼が「彼女と結婚する」と告げると、両親は「子持ちの女性はダメだ!」と猛反対。子供心に居た堪れなくて……。
 その一件が気になっていたわけではないけれど、大人になってから「一番辛かったことは何?」と聞いてみたんです。答えは「ほんのたまに、踏切の前を通るのがどうしたらいいのかわからないほど怖くてさ。辛いのはその一瞬だった」。ああ、ひとりで子供を育てるにはすごい精神力がいるんだなって実感、感謝と敬意が増幅したのを覚えています。
 ともあれ、僕が大好きであり続けたおふくろは、僕が憎み続けた父親をずっと愛していた気がします。だって、毎朝飲むコーヒーは父親の故郷の豆。 何より、「お父さんと声がそっくり! 一生、歌い続けてね」が口癖だったもの。
悔しいけど、血のつながった父親の悪口を聞かされるよりずっと、幸せに育てられたなって思います。
 おふくろは、僕が30歳のときに病気で他界しました。別れが怖くて、しばらく亡骸にすがり「マミーっ!」と泣き叫んでいたのですが、最後の最後におふくろの手に触れたとたん、離別の恐怖が吹き飛んだんです。おふくろの肌と僕の肌があまりにも同じ感触で、「あっ、僕の中に母がいる!」ってストンと受け止められたから。
 だから今でも、何かに躓くたび、僕の中のおふくろに相談しているんですよ。
 おふくろ、いつもありがとう。そして、愛しています!(笑)

Profile

ブラザー・トム
1956 年生まれ、アメリカハワイ州マウイ島出身。
デュオ「バブルガム・ブラーザーズ」として大ヒット曲「 Won’t Be Long 」で紅白出場を果たす。
母を描いた曲「誰も知らない泣ける歌」も人気。
シンガー、作詞・作曲家のほか、俳優、エッセイストなど幅広く活躍中。

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